11月22日から東京ビッグサイトを会場に一般公開された第43回東京モーターショー2013は,12月1日,前回の842,600人を7%上回る902,800人累の計入場者数を集客し,閉幕した。
前回から会場を幕張メッセから東京ビッグサイトに変更したことに加え,子供から大人まで楽しめる参加型イベントを用意したこともあり,集客の増加につながったとみられる。
東京モーターショーは隔年開催が恒例となってり,次回は今回と同じ東京ビッグサイトを会場にして2015年に開催される予定。
―モーターショーの本質はコンセプトカー
同ショーはドイツ・フランクフルト,アメリカ・デトロイトとともに,世界三大モーターショーのひとつに位置づけられ,これまで自動車産業の発展を担ってきた。また,各メーカーからコンセプトカーと呼ばれる実験的な試作車が積極的に投入されることでも知られ,それらはわれわれに近未来を体験させてくれるものだ。
エコカーに重きを置いていた前回に比べて,今回のショーではスポーツカーに代表されるような最新のテクノロジーを惜しみなく投入したコンセプトカーの投入が目立ち,美しく先進的なデザインもあいまって,多くの来場者を魅了した。
実用的な車に需要が集まる昨今,自動車産業は岐路に立たされているといえるが,ある種“無駄”ともいえるような,過剰さをともなう技術の競演こそが,モーターショーのあるべき姿なのだと思う。
もっとも,燃費や走行性能といった技術的な部分が注目されやすいのは,自動車本来の目的が「移動のための乗り物」であることを考えれば当然であるし,重要なテーマであることに異論はない。一方で,輸送手段としての本来の効用を離れ,記号的に消費されたことが,自動車とそれをとりまく環境に変更を迫るほどに影響を及ぼしたのもまた,事実である。
フォルムやデザイン(もちろんそれは流体力学的に高度な計算のうえに成り立っているのであろうが),あるいは施された装飾を,周辺的なものとして片づけられるべきではない。単純に見た目の美しさだが,あるいは,過剰なまでの搭載スペックが,えも言われぬ魅力で人々を惹きつけ,時に選択の基準になりうることもあるのだし,鑑賞の対象でもあるのだ。おかれている状況が昔とは違うという意見もあるかしれないが,仮にそううだとしてもモーターショーが担うべきは未来を見据えた実験的で啓蒙的な空間であるはずだ。
―うつくしいは正義
そもそも,時速300kmの走行が可能なハイエンド・スポーツカーや砂漠などの過酷な状況での走行を想定しているオフロード車のタウンユースは,あきらかに過剰なスペックを搭載しているけれども,好んで乗る人がいるのはなぜなのか。
それは結局何らかの意味を見出しているからに他ならないのだが,ここでなぜを問うことはほとんど意味をなさなくて,理由など何だっていい。たんに「美しいから」や「かっこいいから」で説明としては十分であるし,あるいは「異性にもてたいから」でもいい。無駄の美学あっていいのだし,自己言及的に美しいから美しいのであって,この際余計なセリフは要らない。
「美しいもののみが機能的である」とは建築家・丹下健三が残した至言だが,美しさは,機能の一部である。ボードリヤールの言葉を借りれば「美しくあることがこれほど絶対的な至上命令なのは,それが資本の一形態だから」(p193)だ。
視界に入った瞬間,かわいいと声に出して感嘆したのがKoda9(写真参照)だ。正直に無知を告白すると,この“作品”があのエンツォ・フェラーリのデザインを手がけたKen Okuyama氏によるものだと知ったのは鑑賞を終えてしばらくしてからのことであった。美しいゆえに美しいのであって,それ以上のキャプションはなくてもよかった。たとえ無名のデザイナーによるものだったとしても,けっして驚きや感動が失われることはなかったはずだ。
スペックにもわかる範囲で目を通したけれど,それは個人的にはどうでもよかった。なぜなら,官能的なスペックを搭載していれば直ちに走っている姿を見てみたいと思うだけだし,そうでなければぜひ規格外の美しいスペックを載せて走らせてみたいと思うだけだからだ。美しいが意味する範囲は,エンジンやサスペンションといった内部的な見えない装飾をも包含するのである。
じつはこれ,プレタポルテや高級鞄をめぐる言説に似ていて,衣服を「皮膚の保護と体温調節のための布」とみしたり,バッグを「モノを持ち運ぶための入れ物」とみなすならば,数十万円と引き換えに手に入れる価値はないであろうし,それらに機能以上の意味を見出すこともない。何を好むかという問題は当人にしかわからない感覚だから,無理に理解しようとしても意味がないしする必要もないけれども,対象への愛は向かうところが各人で異なるだけで多かれ少なかれあると思う。
車の場合も同様に,車が「人とモノを運ぶ機械」でしかない者からすればモーターショーは理解しがたく,ともすれば無駄にお金を使っている印象だけを与えるのかもしれない。車にしろコレクションラインの既製服にしろ,嗜好性が強く,生活のマージナルな領域にあるものの価値を無理にわかろうとする必要はないが,同時に,批判する/されるべきものでもない。
ブラウスにあしらわれた,いかにも繊細なフリルの,機能的な意味を問うことの無意味さ。
「こんなの売ってたとしても買えないしいつ乗るんだよでもやっぱりほしい一日だけでいいからほしいよ」とため息を交えながら興奮する瞬間が好きなのです。
参考文献
Baudrillard,J(1979=1995)La Société de consummation, S.G.P.P『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店